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【御祭神】


 





三條家は五摂家に次ぐ公卿最高の名家ですが、代々質素清廉を旨とし清貧に甘んじて学を修め徳を養うということが家風であり、すぐれた歌人、学者など賢才偉人を続出した家でもあります。中でも実萬、実美両公は殊に傑出した方であったといわれます。

実萬公は、生来すこぶる賢明で温雅高尚なご性質でしたが、尊皇愛国の精神においては確乎不抜の志をお持ちでした。幼少の頃から広く和漢の学を修められ、政令宮中の古実礼典に精通され、幕末の詔勅、諸政令を制定されました。
光格、仁孝、孝明の三帝にお仕えし、幕末国事多難の際には武家伝奏の職にあって清廉に朝幕関係の周旋に奮励され、朝権回復に尽力されました。安政5年、日米修好通商条約勅許問題に関して反対の立場に立ち、将軍継承問題では一橋慶喜擁立に動いたことから安政の大獄により弾圧を受け、翌6年落飾して一乗寺に幽棲され10月6日この地で薨ぜられました。御子実美公は、実萬公の遺志を継がれ明治維新の大業を達成し、この父子両公の偉業を賞せられ明治2年明治天皇より「忠成公」のおくり名を賜りました。明治18年10月生地である現在の所に神社を創建し、別格官幣社の御祭神として奉斎されました。

実美公は、和漢の学を始め作歌、作詩、書画の道にいたるまで秀でた才能を発揮されました。ご性質は温雅で玉のごとき君子人の風があったと伝えられています。このご人徳が多くの人心をとらえ、また一面家訓を厳守され位人臣を極められた時も衣服、飲食、居邸にいたるまで奢るところがなかったといわれています。
実萬公薨去後、その遺志を継がれ幾多の困難を乗り越え、果ては「七卿落ち」となり長州、筑州に不遇をかこたれること4年の長きにわたり、ついに明治維新の大業を達成されました。明治2年太政大臣となり、明治の諸制度を制定し、辞職後は内大臣兼総理大臣ともなられ議会政治の基礎を作られました。
かくて明治24年、御年54才病を得て薨去、国葬をもって送られ、大正4年大正天皇の即位式にあたり梨木神社の第二座御祭神として合祀されました。



梨木神社

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